飲み会のスイッチ

飲み会が嫌いだ、人間が変わったようになるのが嫌だ、そのくせ翌日仕事に行けば真面目な顔しているのが嫌だ

と、昔の上司が言っているのを聞いて、なるほど私が飲み会を嫌いな理由はそれにあるのかもと思うのと同時に、私が飲み会を嫌いな理由はそれであることに違いないと思うようになってしまった。

突然電池が切れたみたいに笑えなくなるのは、あらゆる感情が疲れてしまうのは意識して笑顔を作っているからで、本来はああ死ぬほど嫌だとか、一刻も早く帰りたいとか、目の前で面白い話をしてる人は何が楽しくて話しているんだろうかとか冷静になって考えてしまい、結果すごくつまらない、ただの苦行と化してしまうのだけれど。

根本的に嫌な理由は何だろうと考えた時に、一番嫌な瞬間は飲み会の帰り道、今日も言えなかったとかなぜああいってしまったのかという普段らしい後悔とは別に単純な恐怖心が心に残ることがある。

体が寒くなるように、身が震え頭の中はいっぱいになる。さっき笑ってたあの人たちは一体誰だったんだ?

 

私がこんなにも楽しめない行事を率先し楽しく笑ってくつろいで普段話さない人間がこぞって私生活のアレコレを聞き出し、悪口を言い合い、つまるところ恋愛観に落ち着くあの空間は一体何だ。結婚してる人間は結婚してない人間になぜ結婚しないのか執拗に聞き、なぜ自分が結婚したのかを言いたがり、結婚してない人間は自分の性生活に触れない程度に話し、性癖、うんざり。

 

なぜ心の底から興味がない人間の性生活について聞かねばならぬのか。それでなければ自分の自慢、そんなに自分を知ってもらいたいのか。

普通に生活してる分にはおくびにも出さないくせに、本当は話したくて仕方がないのか。人間は人間と仲良くなりたいのか。わかり合いたいのか、それよりも分かって欲しいのか。笑って欲しいのか。

そうしていくうちに、いつか許せるのか?他人の本質を知る事で相手のミスを許せるのか、必死にカバーしてやりたいと思われるためにそうするのか。

 

そうではない、本質を知ったからと言って相手を許せるわけではないし、根本的に仕事ができることの有無と人間的な優しさは完全に別物だ。ある時は死ぬほど憎く思い、ある時は涙を流してまで気持ちを理解しようとする人間なら別に本質を理解しようがしよまいが、関係ない。もちろん理解していた方がその可能性は上がるかもしれないが、憎く思うことが発生する確率をゼロに近くしなければ、一緒に仕事がしやすいなどと思わないだろう。仕事のしやすさの為に理解しようとすることは意味がない、理解ではなく話すのではなく、単に仕事をするか、しないか、それだけだ。

いくら私生活が人間的に優れていて心優しく魅力的な人間だとしても、仕事ができなければ業務中は邪魔なだけ。

つまり理解することが仕事に直結するかといえばそうではなく、それとこれとは話が別になのだ。そんな風に感じている私にとって飲み会は単なる意味のない集まりでしかなく、その中で狂ったように飲む人間も、話し出す込み入った話も全部「なぜこの人は突然こんなふうになったのか」と思えるし、やはり翌日真顔で出社してくることはもはやコメディの域で、二重人格とさえ思う。

明日から人が変わったら怖いでしょう。切り替えのスイッチがあなたにはあり、そのスイッチを押してるのだろうか?

 

わたしにもそのスイッチはあるが、押した後のことは覚えていないし覚えていないことが恐怖。

それを私と同じように恐怖に思わない人間が怖い、だってその人は黙って席に着くはずだから、私が怖いと思っていることも知らずに、素知らぬ顔で切り替えてしまうのだろう。